竜宮【小説】

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今年も海に行けぬまま夏が終わってしまった。休暇は残っているが、秋口の海など侘しいだけだ。
「それならいい店がある」
と言う橘に連れられて、さびれた商店街の路地裏に入る。狭い角を曲がった薄暗い通りにその店はあった。外観は古びたコンクリートの倉庫だ。巻き貝を象った看板には何も書かれていない。
ドアを開けると、がらんどうの部屋だった。すべての壁面にドアしかないのだ。右にも左にも正面の壁にも、床にも。そして天井にも。
橘が「上のドアだ」と天井を指す。え、上ってどうやって行くんだよ。橘は右の壁に足を置くと、壁を垂直に歩き、天井で逆さまになった。
真似てみると、くいっと体が持ちあがり、さっきまでの床が壁になる。こわごわ橘の後ろへ続いて天井のドアをくぐる。そのとたん、水に落ちた。
慌てて水をかいたけれど、橘は直立姿勢のまま、平然と沈んでいく。息ができるのだ。ふしぎな浮遊感に包まれながら底まで落ちると、たどり着いたそこは珊瑚が立ち並ぶ広間だった。色鮮やかな魚たちが僕らを囲み泳いでいる。
「いらっしゃいませ」
珊瑚の裏から、給仕らしい人魚が現れた。
「ようこそ竜宮へ」
竜宮というのが店の名らしい。
「鯛のヒレ酒をもらおう。旨いよ」
魚たちの舞を眺めながら、魚料理とヒレ酒を楽しむ。風流ではあるが、若干生け簀のようでもある。
いい具合に酔ったあたりで、終電だから帰るよ、と橘が立ち上がる。ではこれを、と人魚が差しだしたのは紐で吊したハコフグだった。ぴくぴく震えるハコフグを手に案内された通路を行くと、最初の部屋の、床側のドアに出た。では左右のドアはどこへ続くんだ。
「また今度教えてやるよ」と橘は言う。
夜道を歩きながら、つい体が浮いて横になってしまうのを、その都度橘に引っ張ってもらう。なんとか家に戻って土産のハコフグをほどくと、中には押し寿司が詰められていた。

(了)

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戸田鳥
「あることないこと、ありえないこと、あったかもしれないこと」を短い物語にしています。 AmazonとBCCKSにて電子書籍の公開・販売中(紙本も作ってます)。
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