空から落ちてきた女

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薄曇りで肌寒い水曜日。
僕は職場のカフェに早足で向かった。できることなら早く暖かいカフェの中に逃げ込みたい一心だった。
この街の冬は寒い。そして僕は寒いのが大嫌いだ。
どうにかカフェの入口に着いた時、テラス席からコートを引っ張られた。
「久しぶり。覚えてる?あの時はエスプレッソをごちそうさま」
彼女は微笑みながら僕のコートから手を放した。

忘れるわけがない。不思議な雰囲気を身にまとって雨降りの日にこのカフェの前に現れて、雨が止んだら雨粒と一緒に蒸発して空へ行く、と話したのだ。僕が淹れたエスプレッソを飲み干し、タバコを1本吸って、今度はカフェ・ラテを飲みに来るわ、と去っていったのだ。
正直に言えば、最初はドラッグでもやり過ぎた少しイカれた女性なんだろうと思った。けれど少しずつ会話をしながら、その目を見ていると決してそんな類の女性ではないと思った。だからこそ僕の自慢のエスプレッソを提供したのだ。そして今度はいつ僕の目の前に姿を現すのだろう、とずっと思っていたのだ。

 

彼女のテーブルを見るとカフェ・ラテがあった。これも前に言ったとおりだ。
髪の毛を切ったんだね、とてもよく似合うよ、と微笑みかけると、少し照れたように「だって鬱陶しかったのよ。この長さなら手入れが楽だわ」と言った。テラス席で寒くないのかと訊ねたら「平気よ、だってほら」とタバコに火をつけた。「それにあたしは寒さに強いの。あなたこそ寒いんでしょ?あたしはしばらくここで久しぶりの風景を楽しむから、しっかり働いてくるのよ」とママンのように威厳を持って言った。

僕は休憩時間まで彼女の様子をうかがい、サンドイッチを持って彼女の正面に座った。
「サボっちゃダメよ、それとも休憩時間かしら?」
休憩時間だよ、それより君も何かランチを食べるかい?
「あまり食欲はないのよ……そうね、カフェ・オ・ショコラをもらえるかしら」
僕は一旦カフェの中に戻り、彼女ご所望のカフェ・オ・ショコラを彼女の目の前に置いた。すると彼女は言った。
「さあ、何を聞いてくれてもいいわ。きっとあなたが話を聞きたがっているような気がしてここへ来たの」

見透かされていたというわけだな、とひとりごちて、まずは空の上の世界の話を聞いた。
「空の上はね、平和。ただひたすらに平和。口喧嘩すら起こらないの。みんな微笑んでいる。なんて素敵な世界に来たんだろうと思った。ここなら私が下の世界、つまりここね、で疲れ果ててしまったことから解放されると思ったのよ。しばらくはその空気の中で心地よく暮らしてた。癒されもしたわね。でもね、考えてみて。人間って喜怒哀楽があるのよ。あそこにあったのは喜と楽だけ。ううん、それすらも薄っすらしかなかった。皆が同じで個性も何もない。だんだん気持ちが悪くなってきちゃったのよ。人間と接しているような気がしないんだもの。だから、前と同じように雨雲が立ち込めた日を見計らって、雨粒になってこの世界に戻ってきたの」
その違和感は僕にもなんとなくわかるような気がした。

部屋はどうしたの?半年分だけ払っていったんだろ?もう1年と少し経ってるよ、そう聞くと鼻にシワを寄せて
「よく覚えてるわねぇ。半年経ったある日、おせっかいな友達が“ここは友達の部屋で、自分は部屋をまかされている”っていって住んでてくれたの。おかげでしばらくは女2人でシェア暮らしよ。狭い部屋なのに」とくすっと笑った。「やっぱりこの街は悪く無いわ。古臭いし、余計なおせっかいもあるけど、それでも悪くないわ」

また蒸発して上の世界に行く?
彼女は首を振って「ううん、もう行かない。1度で充分だわ。この世界でのたうち回ってるほうが人間らしいもの」と答えた。
「あ、休憩が終わる前にエスプレッソを1杯ちょうだい。そしたら出かけるわ。シェアメイトとお買い物よ、バカみたいでしょ」
彼女が笑顔でいうので、僕も釣られて笑顔になった。エスプレッソを出すと、香りを嗅いで
「やっぱりあなたいいバリスタよ。今度はシェアメイトも連れてくるわ。でも空の上の世界の話はあなたにしかしてないの。内緒にしてね」とエスプレッソを飲み干して、手を振った。

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雑文とふらふら写真。今日もどこかで生きてます。 I'm always being on the road.

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